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往年のアタッシェケース

A History of over 100 years

Our Story

1892

 明治から昭和にかけて、神戸元町に「合名会社大岩商會」という会社がありました。
帝国商工録(昭和8年)によると、創業は1892(明治25)年です。

 代表者は大岩宇吉で、愛知県出身の書生でした。
大岩宇吉は神戸港での貿易に商機を見い出し、単身神戸に移って事業を始めました。

 事業の内容は、船旅に用いられていたキャビントランクや各種鞄、革具、旅行用品などの製造、販売及び輸出です。

 神戸港は1868年の開港以来国際貿易港として発展し続け、創業当時の1893(明治26)年には輸入額では日本全国第一位の港になっていました。
 また、当時の神戸は外国人居留地を擁するヨーロッパ航路の起点でもあり、商社員や外国人、使節など多くの人々が行き交う街でした。

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 大岩宇吉は大連や天津に資材を買い付けに行ったり、島根県飯石郡来島村・頓原村(現在の飯南町)で50万坪以上に渡る金・銀・銅の試掘を行ったり、1910年代から1920年代にかけて非常に精力的に事業を行いました。

1913(大正2)年には靴の製造も開始しました。


 他方で、忙中閑を見つけては、趣味の山紫水明の撮影を楽しんだり、愛犬を伴って朝鮮半島まで鳥獣狩猟に出かけたりしていました。

 1930(昭和5)年11月3日、事業の拡大に伴い、「合名會社大岩商會」は「合名會社大岩商店」へと組織改編されます。

このころには大阪に三つの専属工場があり、数百名の職工がキャビントランクや鞄、革具、靴、旅行用品などを製造するようになっていました。

 象印のキャビントランクは、大日本帝国陸軍・海軍の著名な将校のものを手掛けることもありました。

 その後さらに事業を拡大するにあたり、1939(昭和14)年5月3日、「合名會社大岩商店」が清算されると同時に「株式會社大岩鞄店」が設立されました。

 しかし、1940年代に入り戦火が激しくなり、神戸は1945年の1月から8月の間に100回以上の空襲を受けました。

とくに3月17日の神戸大空襲では神戸元町付近も壊滅的な被害を受け、社屋をはじめ事業の基盤が大きく損なわれてしまいました。

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1945

1968

1992

 終戦後の1945(昭和20)年、大岩宇吉の娘婿である大上福太郎が、朝鮮半島での兵役から復員し、帰国します。

大上福太郎はのちに現在の当社の創業者となります。

淡路島出身で、出征前は大岩家の丁稚として大岩鞄店で働いていました。

趣味は登山、座右の銘は「努力」です。

 大上福太郎は、戦争によって基盤を大きく失った大岩家の事業を引き継ぎました。

そして1948(昭和23)年に屋号を大岩鞄店から大上鞄店と改め、事業を再スタートさせました。

 戦争で本社建物や工場をはじめ多くのものを失いましたが、大上鞄店は、名は違えど実体は従来の大岩家の事業体と同じでしたので、事業内容もかわらず、神戸元町で象印のキャビントランクや鞄・革小物・ハンドバッグなどの製造と販売を行いました。

 やがて昭和中期にさしかかると、飛行機を利用した海外旅行も自由化され、生活水準は向上し、生活様式も大きく変わりました。
バッグに求められる要素も変化し、日用品としての雑貨という側面より、ファッションアイテムとしての側面がフォーカスされるようになりました。
また、ナイロンをはじめとした機能性素材が普及するようになり、軽量さや機能性が追求されるようになりました。

 

 当社はトランクやケースを小型化する一方で、ダレスバッグやアタッシェケース、ハンドバッグ、ボストンバッグ、学生鞄、旅行鞄など多種多様な鞄をより充実させるようになりました。
また、流行していたボーリングバッグやグローブなど、スポーツ用品も手掛けるようになりました。​

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 時が経つのは早いもので、大岩宇吉が単身事業を始めた当時から、すでに100年以上が経過しています。

 かつて大岩鞄店や大上鞄店が手掛けた象印のキャビントランクが、当社にかえってくることがあります。

半世紀以上前、フルオーダーでトランクを制作されたお客様のご子息の「故人の形見であり処分するのが忍びない」というお考えのもと、当社に寄贈されたキャビントランクが、オーナーとの長く遠い旅を経て、当社に戻ってきたことになります。

 いくつかのキャビントランクは、当社のショーウィンドウに飾られ、今も静かに神戸元町の街を見つめています。

 ライフスタイルや価値観は、時代とともに変わりますが、変わらないものもあります。

たとえば当社の象印は、合名會社大岩商會の時代から100年以上にわたって連綿と受け継がれてきたものです。

「 宝石をえらぶ目でバッグを 」

 昭和 30 年代の当社のパンフレットに記された当社の考え方です。

「少し値段がはっても、長く使える品質の良いものをご提供したい」という当社の考え方も、昭和平成の大量消費社会を経ても変わっていません。

また、おそらく変わることはありません。

​持続可能性が重視されるこんにちでは、一巡してますます真実味を帯びてきているようにも感ぜられます。

 1968(昭和43)年7月1日、大上鞄店は「株式会社大上鞄店」へと法人化されました。

 大上福太郎の長男である大上博文は、父の勧めもあり、欧州十数か国、カナダ、アメリカ合衆国に頻繁に赴き、各国の鞄に対する価値観に多くを学びました。

 ​やがて、現地の会社と直接交渉を行うようになり、当社は欧州のラグジュアリブランド製品を輸入販売も行うようになりました。

これらのブランド製品は、こんにちでは至る所で頻繁に目にするものの、当時の日本にはほとんど流通していませんでした。

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 時代は平成に入り、1992年、大上福太郎が他界します。

長男であった大上博文がそのあとを継ぎましたが、わずか2年後の1994年に、大上博文もまた他界します。

その後、大上博文の妻である大上好子が代表者となりました。

 その翌年、1995年の阪神淡路大震災では、当社も深刻な被害を受けました。

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